稽古と云う事

よく言われるように、稽古とは本来「古(いにしえ)を稽(かんがえる)」という意味を持ちます。


当流の様に、江戸時代以前の古流を源流とする武道ではよく「練習」ではなく「稽古」といいますが、これはまさにただの反復練習ではなく、いにしえをかんがえる事もその眼目にあります。


古流、古武術の秘伝と云うと、現代では失われた神秘的な力や技と思われがちです。

確かにそういったものも在るかも知れませんが、神秘の多くは悟達できた一握りの人しか理解できない領域の合理的業技法であり、その境地へ至れない我々凡人が敢えて彼の地を臨み修業する事が武道の「道」であると考えます。


また武術が実用であった時代、その業技法は常に最新である必要があり、どの流派も他流の良い所盗りをし、自流の奥の手を秘しました。

秘伝と云われる玄奧儀術の多くは、何処の流派にも共通する技術ではあるが非常に難しく、且つ出来てしまえば単純な技術がその正体です。

単純で在るが故に、知られてしまえば簡単に外されるという現実的な理由で奥儀として秘され、終いには隠し過ぎた所為でその術理技法を伝承する人が絶え、技名のみ神秘的な想像を纏い残ってしまったものも多いと思われます。


現代においては一部の戦闘を生業とする人を除き、古武術は最早実用とは云えず、況してや刀剣を用いる居合術は切り合いが日常で無い以上その用を終え、進化の必然がない伝統技術となりました。


問題は、特に乱取りや自由組手もなく、それどころか約束組手である組太刀ですら殆ど残っておらず、単独形ばかりが残った流派です。

このような流派は往々にして、手の振り足の踏みの順序のみ残り、如何に決められた形通りに手足を「置く」かが目的となってしまいます。


確かに古より伝承してきた形通りに動作することは合理的な稽古手段です。

当会でも初心はまず、頭より身体でその形を憶えることが肝要とかんがえます。

ただしある程度動けるようになった先は、その動作の意味、即ち実用であったいにしえの時代に、如何に相手を制するかという目的を形に込めた「理合」を稽ことで、初めて稽古と呼べるものと考えます。

稽古とは身体を動かすだけでは無く、その理合を稽ことであり、その為には見取り稽古という方法も重要な稽古方法となります。


業には上達と下達があり、初心は兎にかく師や兄弟子の業をよく見て、己の動作を重ねられるよう見取ります。

まだ何をやっているかも理解していないうちに、手足の順序のみ執着し、見取り稽古を疎かにして独りよがりの運動ばかりを繰り返すと、師伝の業とは別物の中身のない踊りになってしまい、筋力はつくかもしれませんが武術としては一向に上達しないどころか、下達となってしまします。


中堅は師や兄弟弟子の業をよく見ることで、己の至らぬ処を自覚し、兄弟弟子の至らぬ業をよく見て、何が違うのか、どうして違ってしまうのかを考える事で業の理解が深まります。

これも他人の至らぬを揶揄し批難しているだけでは、己が未熟を瞞着し自己陶酔に堕す下達となります。


また上位者、師と呼ばれる者は道歌に詠む

下手こそは上手の上の限りなれ 返すゝもそしりはしすな

の心持を以て見取り、弟子の不足は己が鏡と心得るべきであり、道場内の上位が人としての上位と勘違いしてしまうと、武術どころか人物としての下達に堕ちてしまいます。

不肖、能々自戒する処です。


当会も同志となる会員が増え、今の道場では手狭になっており、ときには交代で稽古をする必要が出てきました。

このような時、脇で雑談をするか、見取り稽古をするかで、その上達具合は変わるものです。

ただ刀を振るだけなら、自宅でも体育館の個人開放でも出来ます。

折角道場で稽古するならば、場所を確保しひたすら刀を振るのではなく、廻りの状況を見て見取り稽古の長い人が居れば、見取りを交代し己の稽古を深めて頂きたいとおもいます。

無雙直傳英信流 武蔵野稽古会

無雙直傳英信流 武蔵野稽古会は居合を本義とした古流武術 無雙直傳英信流を稽古する道場です

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