真剣を遣う事について

居合とは居合わせの武術であり、刀剣による技術に限られず、己の身、身の回りの物、地の利、時の利すべてを利用して敵を制するすべが本来の姿です。


古傳では172本(神傳流秘書を中心に、同書にある併傳柔術夏原流を含めた166本、時代ごと複数ある伝書の重複は同書に集約し、英信流目録二巻にしか見えない小太刀之位6本を加えた数)の業がありますが、うち73本が剣技、さらにそのうち43本が独演形の、現代で云う所謂居合の業になります。


これら居合の業は刀が実用であった時代より引き継がれてきた術儀であり、江戸中期以降は道場剣術として様式化したとはいえ、根源はあくまで真剣による技術です。


江戸中期以降は、刀剣による闘争は少なくなり、撓木剣による仕組稽古(組太刀の事)の工夫によりその形が精錬昇華されていったものと考えられます。


現代に残る当流の掟業は、根源には刀剣を実用とした時代の形を骨子としており、つまりこれは木剣でも棒でもなく、「刀」を遣う為の技術です。

不肖の見解として、現代の掟業を稽古するにあたっては撓、木剣、模擬刀ではその本質へ至るに適わないと考えるものです。


木剣では「切る」という本来の動作が「打つ」に陥りやすく、況してや撓では反りもなく鎬もなく、刃筋が感じ辛いものです。

また模擬刀では刀身の剛性、粘りにおいて本身とは別物であり、一定以上の技量に至ると、その先にある現実の「切る」という本質を感得するには如何ともし難い壁となります。


とは云え、日本刀とは本来殺傷を目的として進化した道具であり、その危険性は木剣、模擬刀とは比べ物になりません。


この危険な道具を対人制敵の稽古で振るのですから、やはり一定以上の技量と、常に周囲に対し配慮する注意力の持ち主でなければ、自他を危険にさらすことになります。


以前別稿でも述べましたが、真剣とはその扱いを知らなければ容易に傷み、錆朽ちてしまう繊細な芸術品でもあります。

我々の先祖の時代から数々の人手によって手入れされ、受け継ぎ、残された歴史そのものであって、人は一時的な所有者であり、いずれは次の人に託し残して往かなければならないものと考えます。


このような危険性、貴重性から、当会では真剣を遣う事が本来であるとしつつも、その使用は師範による各人の熟練度、自他に対する注意力、人格を判断したうえでの許可を必要とします。

無雙直傳英信流 武蔵野稽古会

無雙直傳英信流 武蔵野稽古会は居合を本義とした古流武術 無雙直傳英信流を稽古する道場です

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