雑考 道としての居合 其之二

居合の世界にいると、居合道、武士道といった言葉をよく聞きます。


昔、まだ当会を発足させる遥か以前に、ある道場でこんなことがありました。

二人の年配者が口論となり、そのうちに片方のかたが「武士道に反する、腹を切れ」と云い放ちました。

さらに、このかたと意見を同じくする観衆の一人が不肖に同意を求めてこられました。

不肖としては、己の意見と相容れない相手に自己基準の「武士道」を適用し、殿様でもないのに家臣でもない他人へ切腹を宣告する(本気ではないでしょうが)ことが武士道だとは思えませんので、「現代の武士道は人それぞれだと思いますよ」と苦笑したものです。


余りの時代錯誤に笑ってしまいましたが、しかしこのかたの云う武士道とは何を指すのだろうかとも考えました。新渡戸稲造の論でしょうか、佐賀鍋島藩の葉隠でしょうか。


翻って、では不肖の「道」とはなにを指すものなのかを考えさせられました。


例えば当会がかつて所属し、先般清田泰山師の斯界引退により惜しまれつつ解散となった神州居合道連盟では、

「武士道とは武士のみならず広く一般世民に至る迄浸透した日本古来の文化であり、その徳目は仁・義・礼・智・信・勇・雅を指す」

と規定していました。


宗家訓や道場訓などで、ある程度統一した「道」の価値観を共有する場合もありますが、具体的な個々の状況に対し、自らの倫理に照らす基準は人それぞれです。


不肖に関して云えば、居合とは日常に於いて常住坐臥、機に臨み変に応ずる心得である以上、道場の外であろうと無手であろうと、居合の心持を実社会に実践してこそ居合「道」としての意義が生まれるのではないかと考えています。


続きます。



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