居合と個性

 世に“個性”という言葉があります。国語では定義が曖昧なままです。
“個性”という言葉は日本の古典には登場しないことばです。文字の並びから、外来語に充てた邦訳であるとの見当はつきます。言語はそれぞれの地域の生活の総体でありますから異なる地域に住まう人間の生活までをも包括するものではありません。それぞれの生活に合わせて分野不均一に深まってゆくものです。よって翻訳の完全一致は難しいものです。
例えば英語の「eat」と「drink」と日本語の「食べる」と「飲む」の境界は一致しませんし、日本では状態や加工により稲・米・飯の別があるものも英語ではすべて“rice”に集約されます。対して日本で“麦”と集約される表現は欧米にはありません。
“個性”ということばをある辞書でひいてみると、「ある個人とほかの個人を区別する」とあります。この言葉が盛んに使われていた私の青年期頃までの記憶では“個性”という名詞は埋込まれる文脈により、褒める貶すの両方の意味でつかわれていました。
私には内面との一致がない外面的主張は“個性”ではなく“虚勢”または“願望”であるとみえます。そうではなく周囲から“個性”が薄いとみなされている方も話してみるとしっかりとした考えをお持ちの場合は少なくないとも実感しております。
あらためて、“居合道と個性”を想ってみます。居合道には直接的な個性は認められておりません。なぜなら先人先達のゆきついたところまでを伝えるという目的が明確にあるからです。ひとつのことを極めようとするには人生は短いようです。このことは“Art is long, life is short.”のように他の文化圏でも認識されており、私には先人先達のゆきついたその先の境地があると示唆されておるように思えます。
被伝者はまず師の継いだ業を獲得してみることです。すると徐々に自分の解釈との乖離が炙りだされることがありましょう。さらに少しこらえて先人先達の伝えることを満たした後、はじめて自己との乖離について稽えることです。そのころには己なりの業の哲学も確立していることでしょう。
わが師、清田泰山師が“個性”について触れたことがあります。わたしの記憶の範囲で伝えます。
「わたしは福井宗家(第21第宗家)から伝えられた業を、皆さんに同じように教えてきたつもりでいる。だから皆同じ業になるはずだけれども…。教えた直後は皆同じような業であるし皆教わった通りに稽古しているのだけれど…。時間がたつと業にちがいがでてくるんだよね。業が間違えているわけでもない…。確かに教えた通りなんだよ。教えた通りに業を行ってもどうしても滲みでてきてしまうものは個性と呼んでもよいのかもしれない。」


歩水

無雙直傳英信流 武蔵野稽古会

無雙直傳英信流 武蔵野稽古会は居合を本義とした古流武術 無雙直傳英信流を稽古する道場です

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